アトリエ通信(日記)

2021-01-24 16:07:00

朝いちばんに考えたこと、何だったかなぁと思いだして思い出せなくて、やっと思い出せた。文字と映像についてのこと。これからはブログとかの文字情報より動画が主流になるという話をたまに耳にしていて、私は半信半疑だったのだけれど、何でそうなるのかというのを聞いて納得できた。文字は、そこに書かれている意味を自分の頭でイメージするという一手間がかかってしまう、けれど動画はイメージするという手間がいらないから楽なのだ。同じ文章を読んでも、読み手によって違う意味に捉えることは多い。これは芸術でも言える。その点、動画は大体の人が同じイメージで受け取れるから、何か伝えたいことがあるときには文字より動画の方が伝わりやすい。
ぼっちの電話をしていて似たようなことを感じた。最初の頃、メールでもやりとりをしていたんだけど、メールは良くないかもしれないと気づき出して、なるべく電話中心ということに切り替えた。文字の情報だと、相手の様子をイメージするのに労力が必要なので、24時間いつでも電話を受けるということが難しいからだ。何か他のことをしていても、電話ならとりあえず出さえすれば、相手の様子がわかる。昔は電話よりメールの方が良いに決まってると信じていたのに、電話なんて人の時間を奪うものだとさえ思っていた、けれど本当にコミュニケーションを取るためには電話の方が早い。電話だと何を話すかなんてさほど重要ではなくなる、エネルギーの交換がうまくいけばそれで癒やしとなり得る。けれど、文字だと、何を語るかが大切になってしまう。メールを読んで理解し、返事を書くまでにかなりの労力がかかってしまう。この労力は愛ではないと思ってる。愛というより自分をどう伝えたいかというエゴが強くなる。そして、相手も文章を書くときに、どう書けば伝わるかと考えながら書くので、エネルギーはどんどん重たくなってしまう。それより電話で重いエネルギーを流して軽くすることが先決なのだ。文字にするのは、個人的に頭を整理したいときにやるほうが断然いい。人に伝えるためにやると思考優先になって辛さは増してしまう。
もちろん、文字で書くことも大切なことだと思うし、こうやって文章を書くことは続けたい、ぼっちの電話以外で自分の創作のこととか、何か伝えたいことがあるときは音声や動画を使ってみたいと思う。
今まで生きてきて、このことに気づいてなくて、メールやLINEなら相手に負担をかけないからどんどん送ってもいいと信じていたので、今さら恥ずかしくなってしまった。たとえ、返事がいらないと伝えたとしても、読んでもらうという手間をかけさせていることに気づいていなかった。

2021-01-24 00:07:00

このサイトに日記を書こうと決めたものの、そういえばデータの容量とかあったような?と思って調べたら、心配しなくても全然大丈夫だった。毎日、原稿用紙1000枚分の文字を書いたとしても容量を越えないみたい。なので、安心して書くことができそう。
ウーバーの帰り道、大体、10〜30分くらい自転車を漕ぐのだけれど、その時に音楽を聴いてる。片方の耳にかけるタイプの外付けのイヤホンがあって、すごく便利。サスペンションがよく効く自転車に乗ってるので、段差とかあると縦にすごく揺れる、それを利用して、その時に少しだけ大げさに揺れて音楽のリズムに乗るという不思議な遊びをしながら帰っている。ペダルを漕ぐときも、首を縦に振ったりして少し大げさに漕いで、急いでるように見せかけて、実はただ曲に合わせて踊るという遊び。
ウーバーのバックを背負ってると、それを見た人はほぼほぼ仕事中だと思うみたいだ。例え、配達していない時でも、配達中だと思うみたい。あのバックを見ると人は想像力を失ってしまうように思える。何というか、メディアで見聞きする配達員の印象でしか見れないのかもしれない。歩きより遅いくらいのスピードで自転車を漕いでいたとしても、めっちゃ速く漕いで危険というイメージがあるのか、大げさに車や人が一時停止してくれることがある。そんな手前で待ってくれても、このとろとろスピードじゃあ、そこまでかなり時間かかるよと思うけど、申し訳ないので、私はわざわざウーバーの配達員としてふさわしそうなスピードを出して期待に応えたりすることがある。
私の配達区域ではウーバーだけだけど、都市部ではウーバーのバックを背負っていたとしても、他の複数の配達サービスの商品を配達中だったりする。ほとんどの配達サービスの配達は、結局ウーバーの配達員がやっているという事実を知らない人は多い。ウーバーが嫌いという理由で他で頼んでいるという人の商品も、実はウーバーの配達員が運んでいるのだ。

2021-01-23 10:30:08
なんとなくTwitterをもっとポエジーな感じ?にしたくなったので、これ書いた後に模様替えしてみようと思う。最近は、ポエムという言葉は人を馬鹿にするときに使ったりすることも少なくないけれど、みんなもっと詩を書けばいいのにとか思う。詩というか、もっと論理的じゃない言葉を。
というわけで、この日記が今までのTwitterみたいな立ち位置になりそう。
このサイトもだけど、Twitterは、自分が理想とする世界に実際に今生きてるかのように表現してみたい、先の未来じゃなくて、すでにそこにいるかのように。そうすると、自ずと詩情のある文章がいいなと思ったのだ。
2021-01-22 09:03:58
このホームページ用のアプリが新しくできていて、この日記のとこだけアプリから投稿できるようになっていた、すごくすごく便利。まるでTwitterみたいに気軽に投稿できる。

ぼっちの電話をやってると自分の強さについて考えさせられる機会が多い。私はまだまだ弱い人間なのだ。他人からどう思われるかということが気になるし、嫌われることがとても怖い。このことはぼっちの電話をやっていく上で本当に邪魔になる。けれど嫌われる勇気を身につける学びとなるのでまだ続けていきたいとは思う。

依存度が高い人への対応はとても慎重にしないといけない。なぜなら、私の嫌われたくない、好かれたいというエゴのまま対応してしまうと、相手からは嫌われないで済むけれど、結局は相手の為にならないからだ。

依存の不思議なしくみだけれど、依存関係を強める対応をすると相手は自分のことを理解してくれたと思って信用してもらえる、けれど、依存関係にならないような対応をすると相手はこちらをわかってくれない人だと認識するようになる、そして、自身の抱える悲しみの感情が怒りや憎しみのエネルギーへと変化して、それがこちらにぶつけられることになる。
直接ぶつけなかったとしても、心の中で、相手がこうだったから自分はこうなのだと、相手の態度が悪かったのだと自分に言い聞かせる。
そうやって溜まったエネルギーを外に出す。
鬱のときはエネルギーの行き先が他人に向いてしまうから仕方がないのはわかっている。

私もそんな人だった。相手がこうだから自分はこうできないのだと言い聞かせていた。すべては相手の反応次第、それによって自分の反応が決まると思っていた。本当にその当時に関わってくれていた人たちに申し訳ないと思っている。


私は嫌われるのが怖い、まだまだ強さがないから、相手の機嫌を取りたくなってしまう。けれど、その行為が後々に悲劇を生む結果に繋がることを知っているので、なるべく相手にどう思われるかということを手放せるようになりたい。

ぼっちの電話でも、電話に出ていくら話しかけても最初からずっと無言。私も人間だからそんなの怖い。それでも私は嫌われたくないから、相手の機嫌を取るために、1人でずっと話しかける。長い時は1時間近く、1人でピエロを演じ続ける。相手はうんともすんとも言わない。そこにいるのかもわからない。まるで昔の自分みたいだ。こちらの出方だけがすべてだ。向こうは気分が落ちきっているから、こちらのことを考える余裕もなくなっているから仕方がない。相手は自分にとって都合の良い言葉が出てくるのを、気持ちいい態度が出てくるのを待っている、無意識に。

最近、自分で自分の機嫌を取るということにアレルギーがある人の意見をよく見かけるようになったけど、自分で自分の機嫌を取ることができない人は、誰かに自分の機嫌を取ってもらうしかなくなる。不機嫌のままでは生きていけないからだ。
それを優しさや無償の愛と勘違いしてしまう。それはただの依存関係なのに。


そうやって自分のことをわかってくれる人はいないと心を閉ざしてしまう、けれど寂しいから、また彷徨い続けて、わかってくれそうな人が見つかると、その人を試すことに全エネルギーを集中させる。昔の私もそうだった。実はここには、お互いのエネルギーの交換ややりとりはない。搾取のみ。もしくは停滞して淀みさらに重くなっていく。
自分が落ちているからといって、相手まで落ちなければいけないわけじゃないのに、相手も落ちていてほしいと望んでいた。もし相手まで落ちてしまえば、その先にどんな悲劇が待っているのか目に見えている。

この依存のしくみを悪用する人も多い。相手を信用させることが簡単にできるからだ。お金が絡むと誘惑に負けて悪用したくなるのも仕方がないとは思う。そういう理由もあって私は無料でぼっちの電話をやってる。
でも、無料でやってるのにまだ嫌われたくないという弱さが残っている。


もちろん、ほとんどの電話ではお互いのエネルギーをやりとりできる健全な関係の元に、話ができてはいる。けれど、まだ弱い自分は依存的なものにどうしても引っ張られがちだ。
けれど、流されない自分になりたいので諦めない。流されない自分じゃなければ、本当の意味で救われる人は誰もいないし、それどころか有害でしかない。

それに、人間の存在まるごとを肯定している考えは変わらない。だから依存的な人であっても、それは今そういう性質になってしまっているだけで、その人そのものの価値とは関係がないと信じているので、ぼっちの電話を続けることができているのだと思う。
2021-01-21 21:10:00

今日からここに日記とか思いついたことを書いていくことに決めた。このサイトの文字の雰囲気とか行間の感じが好きなので、ここに書くことにした。アメブロとかnoteとかに書いた方がたくさんの人に見てもらえそうなのだけれど、何となくここに書こうと自転車を漕ぎながら思いついたのだ。ここにダラダラ書き出してみて、記事になりそうな話はこことは別にnoteにもアップしたらいいかなとか思うので、ここにはとにかく思いつくまま書くことにする。どの場所よりも素の自分で書けたらいいなと願いつつ。
最近はウーバーしつつ、その合間に家事をやり、ウーバーしてない時に創作や家でできる作業をやったりしている。感覚としては西海岸とかにいるサーファーみたいな気分だ。波のある日は波乗りに海で出て、それ以外は創作や家仕事をする。現実は海からほど遠い小さなアパートに住んでいるけれど、気分だけはそんなつもりで。
ウーバーしながらだととにかく時間がない、創作もしたいし、ぼっちの電話もしたい。創作したのなら、それを発信したい。なので、なるだけ時間のかからない発信の仕方を習慣付けたいと思うようになってきた。なので、まずここにダラダラ書き出していく日記的な文章を毎日書く、そして、制作の動画を撮影してYouTubeにアップしたり、インスタに上げたりする、あとはたまに音声か映像でしゃべるという感じでやってみようと思う。記事が書けなくてもしゃべる方が時間がかからないから。
形としてはこんな感じで考えてて、創作についてなのだけれど、もっと詩を書いてみたいと思う。
ウーバーの話だけど、釣りに似てる。釣れる場所を探して街を彷徨う。立ち回り次第、工夫次第で結果が全く変わってくる。そこがおもしろい。あと、交通量が多い時間帯は苦手だけれど、人や車の通りが少なくなった夜中に自転車をこぐのがすきだ。この前思い出したけど、小学生の頃からこれは変わってない。家にいたくないときは、夜でも自転車でひとり出かけた。中学生になると遠くの学区まで足を伸ばした。好きな人ができると、その子の通学路を通ってみたりした。高校生の時は忙しかったので登下校の自転車で癒やされていた。大学生になっても、気分がふさいでしまう時は自転車、それか原付で町をうろうろしていた。それで何となく気分がすっきりする、そのことを忘れていたのだけれど、ウーバーしていて思い出した。いくつになっても、こういうのは変わらないのかも。
今月に入ってからアメブロで創造性についての記事を書いてたんだけど、今日ぜんぶ消した。やってみたくて始めたけれど、何か違うなぁと思ってしまったのだ。何だろう、何か違う。自分のなかの言葉の表現のボキャブラリーがないからか、既存の専門用語とかを使わないと表現できなかったりするのだけれど、そのことで誤解が生まれてしまうような気がした。もちろん誤解されて当たり前とは思っている、すべてをそのまま伝えることは不可能だから。でも、その誤解を解こうとすることにエネルギーを使いたくなかった。解かなければ問題ないのだけど、自分のなかでもしっくりきてないことなので、誤解されることが怖くなってしまったのかもしれない。
もっと、これよかったーとか、これたのしかったーとか、感性が動いたり魂が震えたりしたことを表現するほうが好きなのかもしれない。
というわけで、またいろいろ挑戦してみる。いい歳してこんないろいろやってダサいのでは、とかいう声が自分の頭のなかにたまに浮かんでくる。インスタとか見てると海外のおじいちゃん、おばあちゃん世代の絵描きの人たちが楽しそうに配信してたりしてすごくかっこいい。日本ではほぼ見かけない。見かけたとしても、介護的なジャンルだったりアウトサイダー的に取り上げられていることがほとんどだ。自分もあんな風な歳の取り方をしたい。

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